蓬莱の猫

好き勝手書くだけだよん

俺得!な文章を雑に作ろう

なんか思いつくままに雑に書いてみようか。

物品でもまずは雑に作って機能を確かめるのが大事だと聞いた。雑に作っただけでも機能はわかるし、改善の余地があった時素直に受け止められる。構想自体が間違っていた場合、雑に作ったものならダメージも少ないし。

幼女戦記

コミックス版しか見てませんけどね。アニメ版はターニャの声が受け付けない。セレブリャコーフ嬢があんまりかわいくないし。背中に花を咲かせて登場する彼女はどこにいった。

第5巻が出てましたが、ご都合主義的な印象を持ち始めてます。

後方勤務を望む→戦意あふれる英雄だ…!

みたいな展開が続きすぎ。そろそろターニャの真実を見抜く人が出てきてもいいのでは。あとはターニャと同じような転生組が出てくるとか。

スクラップドプリンセス

昔読んでたのです。コミックス化されてたのでKindleで読んでみました。

なんか、キャラが幼い感じですね。小説の挿絵ではだいぶ大人っぽいがっしりした印象でしたが。丸っこくてくるりんとした感じのキャラ絵になってます。

ストーリーは…最近フィクションのストーリーがわからなくなってきてるからなあ。私の感性がおかしいのか、ストーリーがありきたりなのか。わかんないなあ。

高校生の頃のような文章からはっきりくっきりしたイメージを想起させてイメージの中で楽しみたいんですけどね。頭がぼーっとインフレーションしてて、入っていかない感じ。頭の中のエネルギー密度が高すぎて、中途半端な創作物は受け付けてくれない感じ。頭の中のビンに砂を詰め込みきって満杯にしてしまった、ような。そうなると出さないといけませんね。砂を出して受け入れる余地を作るのです。出すのだからアウトプットですかね。文章で吐き出すんですかね。書いてるうちに結構次から次へと出てくるもんですね。書く前はこんなこと書くとは想像してませんでした。

ヒストリエ

ヒストリエって歴史って意味ですよね。ヒストリアイとは関係あるのかな。もしかして表記が違うだけで同じものかもしれませんね。

主人公の名前が思い出せない…。なんだっけ。スキタイなのは覚えてるんですが。あとチェス作ってた。手先が器用でした。

紙面から少し真剣だけど緩い感じがして面白いマンガですよね。緩めの空気感が楽しい。

秋山瑞人

EGコンバットではまった人(ハーイ)。女性が全員月にいるとかどんだけ無茶設定だよ、と思うんですが、気にならなくなるのが秋山瑞人の魔法。文章自体に魔法でもかかってんじゃないかと思わせるようなイメージのしやすい文体です。

数日前に文章を書き写してみましたが、書き写してる時は感じなくても、次の日になって見てみると秋山瑞人の魔法の文章がちゃんと出来上がってるんですよねえ。

書いているときの視点と、読んでいるときの視点というのはすんごく遠く離れているというのがわかりました。

それに秋山瑞人氏の文体は秋山氏にしか書けんでしょ。目指すは自分の文体ですね。書いてて集中できて、あとから読んでも…後から自分で読むのはいらないかも。書きっぱなしでいいかもしれませんね。

しかし小説家というのは色々なことを文章にできないと成れませんね。校舎が右手、プールが左手とか、時計があーだこーだと書き連ねるのは私にゃ無理です。そこまで想像力を膨らませられない。しかもそれが導入部の序盤にすぎないのだから。どれだけ想像力あるんだろ。そして想像したものを形に残せるのもすごい。浮かんできたものをすくいあげても数時間したらなんだろ?これ、って感じになっちゃうからなあ私。

浮かんできたもので瞬間的に楽しくなってるから書き残すのですが。それが後の自分から見て楽しいか、というのは別問題。よくわからなかったり、否定しちゃったりするんですよね。消さずにとっとく、というのが最近の自分ルールです。否定しちゃってもそのうちまた肯定するかもしれない、というのが理由。気分はぐるぐる巡るのです。

こうして書いている文章は、今は書き手の自分が見ていますが、明日になったら読み手の自分が見るわけです。見ないかもしれないけど。別の人が見たらその人がその時の気分で読んでみて、何を思うかなど私からはわからないのです。ブラインドが大量にかかったまま過ごすのが日常。考えなくてもいいことまで考えて不安になるのが今の私です。常識のラインがどこにあるのか、よくわからなくなっているので、暫定ラインを引いては違うかな、こうかな、とやる日々です。しまいにゃフラクタル図形みたいなラインが引けそうですねえ。

佐藤大輔

御大、死んじゃったんですね。好きだった作家さんの訃報を聞くと年取ったなあと思います。続編は出なくてももしかしたら…!と淡い想像をすることはもうできないのです。いずれ私も旅路に出るのでしょうね。さてどこにいくのやら。大量の佐藤大輔、大量の秋山瑞人の著作がある大図書館の司書さんとかになりたい。

生まれる前と死んだ後は果たして同じ場所なのかな。どっちも無であるのですが。人はどこから来て、どこに行くのか。永遠のテーマなり。考えたら負け、なテーマでもありますが。いずれゆくのだ、ということを体感できれば考える必要もなくなるテーマです。考えているうちはわかってないんですよね。わかったというのは体で感じるもので、頭で理解するものではないのですから。

今の自分は頭がぼーっとしているような感じ。寝起きはさらに体が寝ているので二重苦。ぼけている自分を認識して、なんとかして火を入れる必要があります。

今日はこの文章書いてたらなんだか火が灯ってきましたね。さっきまでは穏やかではあるものの、気分がなんか鈍かったです。

文章を雑に書くというのはなかなかいい考え方です。きっちりしっかりしたものなんて書かなくていいのです。まずはアウトプット。体が動くままに中身の精査などせずに、ただ垂れ流す。垂れ流した文の海の中からまたなんか新しいものが見つかるかもしれない。新しいものを手に入れた後のことは手に入れてからでないとわからないものです。

毎日繰り返す中でも、パターンを把握して現状を分析するのは大事。私の場合一晩寝るだけで朝になったら体が動いてませんからね。頭がぼけているのはいつものことですが。体に火を入れるのです。それには新しい刺激が必要です。外部に新しい刺激を求めるのは限度があります。そんな新しいことばっかりあるわけではないのですから。それよりも自分の心の海から出てくる文章を引っ張り出す方が面白いし、飽きが来ないのではないか。書いている自分に熱中するのはとてもいいことではないか。役に立つ立たないで言えば、俺得!なだけでいいではないですか。誰かの役に立つ前に、自分の役に立つ文章を書くのが大事ではないかと思います。